本日 40 人 - 昨日 0 人 - 累計 9779 人

人生の飢えと渇き

2012年10月23日
底なしの飢えと渇き

経験した事ありませんか?過去の僕は常に「何か」を求めていました。少しでも時間があると自分の中にある飢えを満たそうと「何か」を探し続ける毎日。「何か面白いこと無い?」こんなセリフを聞いた、又は言った事ありませんか?僕の周囲にはよく飛び交っていた言葉です。

何を探し求めているのだろうか?



ある人は言いました
目標が必要だと


社会に出た当時の目標は経営者になる事でした。努力の甲斐があって運良く24歳で独立し飲食店経営者になりましたが、一つの目標が達成すれば次の目標が必要になる等、考えてもいませんでした。そこに満たしは無かったのです。

まだ「何か」が足りない、満たされない飢えと渇き
ある人が言いました
結婚して家族を持って落ち着けば、満たされるよと


これも直ぐ実現しました。もちろん妥協は無く恋愛からの結婚でしたし、これといって特に不満もありませんでした。これで満たされる、満たされなければおかしいとさえ思いました。

しかし心はまだ、常に「何か」を求めて止まない。
結果、心を満たしたのものは、正体不明の苛立ち、不安、恐れでした


僕は祖母に育てられましたが、育った環境が劣悪だったと言う事はありません。むしろ一般的には恵まれている方、幸せな方ではないかと思うくらいです。しかしそんなことは関係ないと言わんばかりに、それは突然訪れました。

今まで自分を照らしていたのは人口の光、眩しい光の中を歩いていると思っていたのは確かに幻想でした。何者かがスイッチを切れば瞬く間に闇は訪れる。それは一瞬の出来事のようでした。


訪れた破滅と死の淵

死んでしまいたかった。酒浸りの日々、喧嘩、とても胸を張って言える経験ではありません。そんな毎日が続いてもう嫌になり全てがどうでも良くなっていたんです。

それから少し、不思議な経験をしたのですが、これはなかなか伝える事が難しいのであえて伏せます。

これらの経験は、何か特別なものでは無いと思います。むしろ多くの人が感じているのではないかとさえ思いますし、もちろんより過酷な人生を歩んでいる方も大勢おられると思います。ただ僕が恵まれていたのは素直に弱くなれた事、自分の無力さを痛感したその時に、素直に救いを求められた事、もちろん人ではなく神様にです。そしてイエス様に出会った事、経験したことのない平安、喜び、幸福、あんなに泣いたことはありません。あんなに満たされたことはありません。あんなに感謝したことはありません。全てが言葉に表せない程素晴らしく、それは時が経った今もまだ続いている。


満たされている人生、それは全てが新しい人生

そんなに良い話があるわけない、何か裏があるはずだと思うかもしれません。確かに人間の世は、その様なものなのかもしれませんが、神の愛は違います。求めるなら、与えられるのです。自分が今まで求めてやまなかった「何か」がまさか神の愛だったとは過去には思いもしなかった事なのです。

神の愛、御子イエス・キリスト

マタイの福音書7章7節
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。



挨拶

2012年10月22日
はじめまして、まずここを開いてくださった事に感謝します。
平安と祝福があります様に。


 僕が伝え,分かち合いたい事は、イエスキリストです。しかし悲しいかな多くの人は関心が無ければ興味を示さないでしょうし、興味が無ければ深く知ろうとはしないでしょう。現在の日本では多くの場合、イエスキリストを知ってはいるが関心は無いと言うのが現状だと、感じています。

 どうでも良い事であれば、そのまま無理に伝える必要もないと思いますし、知る必要もないと思います。しかし、僕はこれが知っておくべき重要な事だと確信しています。そして伝道は神様からくる聖書の生きた御言葉によって、その使命に召された人がしなければならない事と理解しています。

 何が言いたいのかというと、別に教会員の勧誘がしたいわけでもなく、自分の考えを認めて欲しいわけでもありません。聖書の教え(律法)を教えようと言うのでもありません。純粋に僕自身の過去の環境と経験の中で、感じ思っていた事や、知人の事等に、もしほんの少しでも共感を覚えるなら、少しだけでも立ち止まって感じてほしいのです。 

 まだまだ若輩者ですが、僕の人生の中で一番重要な出来事は何ですか?と聞かれた時、僕の答えは間違いなくイエスキリストに出会った事だと答えるでしょう。そしてこの答えは決して変わることは無いと確信しています。


あなたの人生で一番重要な出来事は何ですか?

 あえて「考えてほしい」ではなく「感じてほしい」と伝えています。私たち人の考えが及ぶ範囲に伝えたい事が無いので教える事が出来ないのです、自身が持つ過去の経験という事実から「心に何かを感じる」ならその「何か」が道となります。僕はイエス様に「出会った」と表現していますが、もちろん実際に人と会うように会った訳ではありません。しかし「知った」ではなく「出会った」という表現が一番適切なのです。

 もう少し詳しく表現するなら、ある時感じはじめた人生の違和感と疑問、そこから心に浮かび上がった「何か」を追いかけている道の先に答えは確かに在りました。


答えは、イエス・キリスト

 これから少しずつ記事を書いて行きますが、もし何かを感じ興味を持って頂けたならば幸いです。願わくは、一人でも多くの人が、その思い煩いから解かれ、神様の平安と喜びに満ちた人生へと導かれます様に。

聖書の御言葉を紹介します。


ヨハネの福音書14章6節-7節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」